大判例

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宮崎地方裁判所 昭和33年(わ)262号 判決

被告人 加藤利盛

大一五・八・一生 土工

清トクエ

大五・一二・三〇生 雑貨商

主文

被告人両名を各無期懲役に処する。

訴訟費用中証人谷口道治(ただし昭和三三年一一月一七日出頭分)、同西武美に各支給した分は被告人両名の連帯負担とし、国選弁護人杉本勤及び証人原田秀行、同松田忠正、同清高光、同金丸政輝、同清美智子、同松本秀秋、同坂井忠に各支給した分は被告人加藤利盛の負担とし、証人徳地道治(ただし昭和三四年六月二二日出頭分)に支給した分は被告人清トクエの負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

第一、被告人らの経歴

被告人加藤利盛は小学校高等科二年を中退し、紡績工場の職工として働いているうち、大館海兵団に入隊し、復員してから土工、職工、炭坑夫等をして転々各地を廻り、昭和三二年八月三〇日から宮崎市と日南市とを結ぶ鉄道の建設工事を施行している大和土建株式会社に土工として雇われ、同社日南出張所佐々木班飯場に住み込み稼働していたもの、被告人清トクエは小学校高等科を卒業し、一六歳の頃私通により女児を生みおとしたこともあつたが、昭和一〇年頃一度結婚しながら二ヶ月あまりで離婚し、翌一一年頃当時日南市飫肥でタクシーの運転手をしていた清義隆(明治三七年七月一五日生)と再婚したが、同人には亡先妻との間に佐智子、美智子の二児がいた。義隆は、その後宮崎交通株式会社のバスの運転手となつたが、同二〇年頃喘息を患つて健康を損ねたため、同市大字富土に引き揚げて暫時農業をし、同二九年頃トクエの肩書住居に新居を構えそこで雑貨商を経営し、傍ら大工や狩猟をしていたものであるが、トクエはものにこだわらない開放的な性格であるのに対し、義隆は小心で口やかましい性格であつたため夫婦仲はとかくしつくり行かず、そのうえ淫奔なトクエは、同二〇年頃他に男を作つて東京へかけおちしたこともあつた。

第二、犯行に至るまでの経緯

加藤が稼働していた前記佐々木班飯場は、トクエと義隆が経営する店舖に近かつたので、加藤は右店舖に買物等に来ているうち、同人らと知り合い、次第にトクエとは親しさを増して行き、昭和三二年一〇月頃前記清美智子が始めた居酒屋「大和スタンドバー」にトクエが手伝に行くようになつてからは加藤は同店に足繁く出入するようになり遂に同年一一月頃から情交を累ねるようになつたが、ようやく義隆は、同三三年一月頃被告人らが同店に一緒にいるところを発見し激怒のあまり同店の窓ガラス等を叩き割り、逃げようとするトクエを下駄でなぐりつけたりしたが、近隣の人達のとりなしで一応その場はおさまつた。そこで、義隆は同店を閉鎖しトクエと加藤との間を厳しく監視するようになつた。

義隆は、被告人らの右関係を知つてからは、トクエに対して口やかましく加藤との関係を難詰して責め立て、はては叩いたり蹴つたりすることが多くなつたので、トクエは次第にこれを耐え難く思い、義隆と離婚しようと考え、しばしばその旨を申し出たが、義隆はこれに同意せず遂には「どうしても別れるというならお前を銃で撃ち殺して俺も死ぬ。」「加藤と逃げても俺もあるだけの財産を売つて必ず探し出してお前を銃で撃ち殺して俺も死ぬ。」などと口走り自分の所有する猟銃を取り出してトクエにつきつけたりするので、トクエは義隆と別れることもできず、同年三月終頃、人を介して別れ話をしたが義隆の拒絶にあつて果さなかつた。そうして、さらに同年四月中旬頃、被告人らと義隆及び松田秀秋と清高光とで話し合つた結果、加藤はトクエのところに出入しないこと、トクエは当分の間松田秀秋があずかることに話がまとまつたが、義隆はすぐその翌日トクエを右松田方から自宅に連れ戻してしまつた。一方加藤はトクエに対し、「死んでも別れない」と云い寄つて来るし、トクエもまた加藤に心を寄せているため、その関係を清算できないまま、義隆の目をぬすんで右関係を続け、そのたびにトクエは加藤に、義隆から責められ乱暴をされていること等を話したうえ、「義隆は病身で先が長くない。義隆が死ねば一緒になれるから時機を待とう。」と互に慰め合つていたが、相互の愛情が次第に深まり行くにつれて、かけおちのことなどについても話し合うようになり、何時とはなしに被告人らの右関係を知つた部落の人々の前でもはばからない有様であつた。しかしこのように、被告人らの関係が深まるにつれ、義隆と加藤との感情的対立は激化して行き、義隆は加藤の不倫な仕打ちに憤怒の情を抱くのに対し、加藤は義隆の存在が邪魔になるばかりか、トクエがそのことで、義隆からひどい仕打をうけていることを不憫に思つて義隆に対し憎悪の念を燃し、加藤が義隆方で同人に対し大工道具箱からのみやのこぎりを取り出して暴れたことがあつてからは義隆は一層加藤を恐れて、のみのこぎり等の刃物を寝床の下に入れ、また銃を身辺に用意して寝むようになつたが、加藤はトクエの話や村人の噂で義隆が右のように身辺に刃物や銃を用意していることを聞き、義隆の出方によつてはどちらが勝つか生命をかけたけんかをしようと考えるに至り、加藤と義隆との間は日と共に緊張の度を加えて行つた。ところが、加藤は同年五月一一日頃、土工仲間の満行忠重とけんかをし野菜庖丁で同人の顔を傷けたことで、日南警察署に勾留されたが、義隆はトクエに「加藤に面会に行きたいじやろうが。遠慮はいらんから行け。」などと云うので、トクエも立腹して、「そんなに云うなら意地でも行つてくる。」と云い返してみたものの面会に行つたことが義隆に知れると、同人が激怒のあまりどんな乱暴をするかわからないので面会にも行かずにいるうち、加藤は同年六月一〇日、宮崎地方裁判所日南支部で右事件により懲役六月、二年間執行猶予の判決の言渡を受けて釈放され飯場に帰つて来た。そうして加藤は飯場の仲間から自分が警察に勾留されている間に、飯場の人達が自分がダイナマイトを持つて部落に出入しているという噂により、自分の荷物を調べたと聞き、無根のことを云つて自分を罪に陥れようとしている者がいると考え、一方部落の人達から、トクエは自分がいない間に義隆にひどくいじめられたと聞き、心おだやかでなく同月一二日夜義隆方を訪れ約一月ぶりにトクエに会うことができたが、その際トクエは加藤に、加藤が勾留されている間義隆から、「加藤に面会に行き度いだろう。」などと云われてこれまで以上にひどくいじめられたと泣いて訴え、そのため面会にも行けなかつたと謝つたので、二人で今度こそ働いて旅費ができたら一緒にかけおちしようと相談したが、間もなく義隆が帰つて来たので、加藤はひそかに裏口から逃げ帰り、同夜は情交することもできなかつた。他方同月一四日晩方義隆はトクエが貰い風呂に行くといつて出たのを加藤に会いに行つたものと邪推してしつとに狂い、このうえはトクエを殺害して自殺しようと実兄の清義光、娘婿の清高光、及び警察署長にあててその旨の遺書(証第三号)をしたためた。

第三、犯行

加藤は、同月一五日午後一〇時三〇分頃トクエに会うために義隆方附近に行つたところ、同人方に客が来ていたので近くの坂井忠方に立ち寄つて暫時時間をつぶし、再び義隆方に行つてみると、客は既に帰り、トクエが表出入口の雨戸を締めていたので、加藤はトクエに呼びかけてその手を握つたところ、トクエは「今日は義隆がいるから又来なさい。」といつてつれなく加藤の返事も聞かずに雨戸をしめて追いかえし、すぐ六畳の間の寝床に入つてしまつたので、加藤は何とかしてトクエに会つて話をしようと裏へ廻つてみると、風呂場の窓も開かないように釘づけにされているので、いよいよ義隆はトクエを自分と会わせないように戸締りをきびしくしたうえ監視しているものと考え、今夜はどうしても義隆に会つて、自分がダイナマイトを持つて部落に出入りしているとの噂は義隆がいいふらしたのではないかを詰問し、また義隆が自分に対してどの程度の憎悪の感情を抱いているかを探り、且機会を見てトクエと早急にかけおちをする相談をしようと考え、所携の懐中電灯でトクエの寝ている右六畳の間の東側ガラス窓を小突いた。するとトクエが起き出して来て右ガラス戸を開けたが、義隆も同間南側雨戸を開けて「誰か。」と呼んだので、加藤は、「加藤だが、戸を早く開けやい。」といつて、トクエに表出入口の雨戸を開けさせて家の中に入り、三畳の間に腰かけ、義隆の態度を窺つてみると、義隆は不気嫌な顔をして黙つていた。そこで加藤が義隆に、「焼酎を一ぱい飲ませない。」と声をかけたところ、義隆は、「焼酎は一寸もない。」といつて断つたので、加藤は今度は、「サイダーを一本飲ませてくれ。」といつたが、義隆は返事もしないので、トクエは義隆に、「返事位はしたもんじや。あるものを。サイダー位は飲ませたもんじや。」といいながら店からサイダーを一本持つて来て口を開けコツプについで差し出したが、加藤は、「返事をせんものが飲まれるか。」と怒号し、逆上しかけたが思いかえし、「水だけ飲ましてくれ。」といつて炊事場へ行つて水を飲み、暫く三畳の間に寝ころんで気を静めてから再び起き上り、義隆に対して、「俺が警察に行つている間おつかあを可愛がつてくれるのかと思つたらいじめたそうじやないか。俺がおつてもおらんでも同じじやないか。警察という処に行つてくれば良くなることもあるし、悪くなることもあるんだ。俺がそんなに憎ければ腕ではかなわんだろうから鉄砲でも何でも持つて来て俺を殺しない。」とたんかを切り、更に、「この部落に俺がダイナマイトを持つて出入しているという者があつて荷物まで調べられたが、俺のやつていないことまで云つて罪におとそうとしている。」というと、義隆が「俺はお前は殺さん。ダイナマイトのことは誰が云つたか知らんが、俺はお前を罪におとすようなことをしようとは思わない。まあサイダーでも飲めよ。」といつたので、加藤は、「飲まんといつたら飲まん。」と答えたが、義隆は別に怒つた様子でもなく、又加藤に帰れとも云わなかつたので、加藤はこのままここに泊り込めば、義隆に知られずにトクエと相談し合う機会があるかも知れないと考え、義隆に、「今晩きついから泊めてくれ。」と頼んだところ、義隆は不精々々「世間の口がうるさいから朝早く帰れば泊つていいわい。」と返事をしたので加藤は泊ることにし、トクエは加藤のために三畳の間にふとんを敷き、寝巻を出したが、義隆方には枕が二個しかないうえ、義隆の目の前で加藤にあまり親切にすることは差し控えた方が良いと判断して加藤の寝床には枕をおかなかつた。このようにして加藤は、同日午後一二時頃寝巻に着換えて枕がないまま寝床に入り、義隆とトクエも間もなく六畳の間の寝床に入り電気を消して寝たが、加藤はトクエが右のように枕を貸してくれないのは義隆に遠慮しているものと推測し、或はトクエは、義隆が眠つてしまつたら枕を持つて来てくれるだろうから、その機会にトクエとかけおちの相談をしようと考え、眠られないままにトクエが来るのを待つていたが、それから四〇分位経過してもトクエの来る気配がないので、そのトクエの冷淡な態度に立腹し、余憤やるかたなく起き上つて寝巻をぬいで着用して来た仕事着に着換え、半長靴を履いた。そしてトクエを呼び出して右の相談をしようと決意し、裏出入口から外へ出て小用をすませ引き返して来る途中、もしトクエを呼び出せば、義隆が激怒して銃を取り出すかも知れないがそれに備え、いちはやく義隆を攻撃するための兇器を用意して置こうと考え、所携の懐中電灯で便所前の物置を物色したところ、刃渡約一二センチメートルの手斧(証第二号)を発見したのでこれを自分の寝ていたふとんの下に隠しおき、その近くに腰かけて六畳の間の様子を窺つていたところ、まもなく、同月一六日午前二時頃、義隆とトクエは寝床から起き出し、義隆は同間の窓ガラスを開けてそこから放尿し、トクエは四畳半の間を通つて土間に下り、便所へ行こうとしたが、加藤はその物音や様子から義隆は加藤が右のように兇器を準備したことに感ずいて銃をもつて外に出てトクエを連れて逃げようとしているのではないかと誤解し、トクエの手を取つて「どこへ行くのか。」と聞いたところ、トクエは「小便に行く。」と答えたが、なおトクエの手を握つたまま裏出入口から外に出てみたところ、義隆が小用を終えて窓ガラスを締め、トクエもかさねて「小便に行く。」というので加藤は一先ず安心して、トクエの手をはなして引き返し、再び三畳のふとんの附近に腰かけて待つていると、トクエが小用をすませて右土間に戻つて来て、加藤に「どうして寝まんと。」と尋ねながらそのまま右六畳の間の方へ入ろうとしたので、加藤はトクエの右冷淡な態度に再び立腹し、「あんまり体裁ばかり作るな。なんぼおやじの前でも枕位は持つて来たもんじや。」といいながら右平手でトクエの左頬を一回殴りつけたので、トクエは「何をすつとね。」といつて頬を押え、加藤のそばに腰かけたところ、加藤は「ごめんね。」と謝り、ふとんをめくつて隠してある手斧をトクエに見せたうえ、「銃はどこにあるとか。」と聞きただしたが、トクエは「短気なまねをするといかん。」と加藤をたしなめたうえ、「銃ね。」といつたまま銃のある場所については何も答えなかつた。一方、義隆は小用を終つてガラス窓をしめてから、障子戸の開かれている六畳の間と四畳半の間との境の敷居南側附近に立つて、じつと加藤とトクエの右挙動をみつめていたので、加藤は義隆に、「おとつさん。俺はおつかあに今夜用があるのだからあんたはもう寝ない。」と数回声をかけたが、義隆はなおじつと立つたままで、そこを動こうとしなかつた。そのため加藤はトクエと思うように話も出来ず、又トクエが先刻来自分に対して冷い態度を示しているのも義隆がトクエを監視しているからだと思うと腹が立つてたまらず、もうこうなつた以上義隆にはたし合いを挑んで機先を制して同人を殺害しようと決意し、義隆に「くやしければ鉄砲でも何でも持つて来い。」と叫んだところ、義隆が急に六畳の間の奥の方に身を翻したので加藤はすぐにふとんの下から右手斧を取り出し土足のまま四畳半の間に飛び上つて、義隆のいる六畳の間の方へ走り寄つてみると、義隆は同間床の間附近で、弾入れの帯革をつかみ取り、さらに手をさしのべて床の間においてある銃を取ろうとしていたので、加藤は義隆の左斜後方に近づき、いきなり両手で右手斧を握つてこれを振り上げ、義隆の肩附近をめがけて一回力一ぱい振り下し、義隆の左肩峰部に長さ約八・一センチメートルの肩胛棘前縁の骨質表層を約三センチメートルにわたり削り取り、肩胛窩に長さ約二・五センチメートルの骨裂創を形成する深さ三・七センチメートルの柳葉状[口多]開切割創一個を負わせ、ついで義隆が「あいた。」と叫んで加藤の方に振り向いたところを同様手斧を振り上げて義隆の頭部をめがけて一回振り下し、義隆の前頭部に長さ約四・五センチメートル深さ頭骨の半ばに達して骨質表層を長さ約三・七センチメートル、巾一・七センチメートルにわたり削り取る[口多]開切割創一個を与えたところ、義隆は「助けてくれ。」と叫び声をあげて加藤に抱きついてきたので加藤は手斧を投げ捨て、同所附近で義隆と組み合い、同間東側寄りに敷いてあつたふとんの枕もと附近に義隆を組み倒したが、義隆はなおも声をあげて助けを求めたので、加藤は倒れた義隆の頭を押えつけかがみ込み右腕で義隆の首を抱きかかえるようにして締めたが、その腕が義隆のあごにかかつたうえに、義隆が加藤のその腕にかみついて来たのでうまく首を締めることができず、互に揉み合い、義隆は加藤に押えつけられながら血にまみれ、なおも「助けてくれ。」と叫び声を挙げていた。そのときトクエはその騒ぎに驚き、かけつけて来て、その様子を目撃し、加藤が義隆を殺そうとしているものであることを察知し、もうこういうなりゆきになつた以上は自分も加藤と協力して義隆を殺害しようと決意し、加藤に対し、「早く殺そう。」と申し向け、ここに被告人らは意思相通じて義隆を殺害すべく共謀をとげ、トクエはすぐさま走つて裏出入口の柱に掛けてあつた刃渡約七・八センチメートルの切出ナイフ(証第一号)を取り左手に握つて引き返し、加藤に押えつけられている義隆の頭部附近にひざをついて坐り、右切出ナイフを右手に持ちかえて逆手ににぎり、左手で義隆の右肩附近を押え、義隆の頸部を突き刺そうとしたが、義隆が右手で右切出ナイフを握つてこれを防ごうとするので、加藤は義隆にかみつかれていた右腕を義隆の口から離し、左手で義隆の頭を動かないようにしつかりと押えつけ、トクエは右切出ナイフで義隆の頸部を力一ぱいに一回切り下げたうえ、力まかせに手前に引き掻き、続いて同様もう一度同部を切り下げて突き刺し、よつて義隆の前頸部に長さ一〇・六センチメートルで甲状軟骨の上端を削切し、大きく[口多]開する切創及び右切創領域に食道後壁を損傷する刺切創を各一個与え、そのため義隆をして右前頸部切創、同刺切創、前頭部並びに左肩峰部切割創の創傷に基因する失血のため間もなくその場で死亡させて殺害の目的をとげたものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人らの主張に対する判断)

一、被告人加藤利盛の弁護人杉本勤、同清トクエの弁護人宮下輝雄は、本件犯行は義隆が猟銃を取り出して被告人らを射殺しようとしたので、これに対して自己の生命、身体を防衛するためにやむを得ずなされたもので正当防衛行為にあたると主張するが、しかし本件は判示のように義隆と被告人らとはかねてから感情的に対立していた状態のもとにおいて加藤は機先を制して義隆を殺害しようと決意して、義隆に「銃でも何でも持つて来い。」といつて挑発し、手斧を持つてかけより義隆が銃を取ろうとしているところを手斧で左肩峰部及び前頭部を強打し、組みついて来た義隆を組み倒して右腕で義隆ののどを締めようとしたがうまく行かなかつたので、加藤とその様子を目撃したトクエとが互に義隆を殺害することの意思相通じ、加藤において義隆の頭を押え、トクエにおいてナイフで義隆の前頸部を切りつけて殺害したものであるから、このような被告人らの行為が正当防衛に該らないこと多言を要しない。そうすると弁護人らの右主張は理由がない。

二、弁護人宮下輝雄は、被告人清は、清義隆の嘱託によつて同人を殺害したものであるから、嘱託殺人の法条をもつて処断すべきであると主張するが、本件犯行が義隆の嘱託によるものでないことは、判示第三認定の事実から明らかである。従つて、同主張も理由がない。

(法令の適用)

被告人らの判示所為は各刑法第一九九条、第六〇条に該当するところ、情状を按ずるに、加藤は平素から放縦で粗暴な振舞が多く、自己の恣意を強引に押し通そうとし、これに反対し妨害するものに対しては腕力でたち向い、場合によつてははたし合いで解決しようとする行動形式が深く身に沁み込んでいることが認められ、本件においても人妻であるトクエと情を通じ、義隆にその関係を察知されて後も、本来ならば当然自己の非を省みてその不倫な関係を清算しようと努力すべきであるのに、そうした努力をせず、密通を続けたのみか却つて自己の道ならぬ思いを遂げるために義隆を邪魔者として憎悪し、遂に義隆方に泊り込んで、深夜これを惨殺するに至つたのである。その人倫と道義を無視し、人の生命、身体に対する尊重の念を持たない生活態度が強く問題視されなければならない。

特に加藤は既に二回にわたつて処罰を受けており、前記のように傷害事件について判決の言渡を受けて数日を出でずして本件を敢行しており、犯行後においても改悛の情が未だ充分なものがあるとは云えないのである。

また、トクエは多情で身持ちが悪く、以前にも男を作つて東京へかけおちしたことがあるなど、貞淑な妻であつたとは到底云い難く、本件における加藤との人倫にはずれた身勝手な振舞において既に道義的に批難に値するのであるが、義隆にこれを難詰されたことに反感を抱き、これを邪魔者扱いにし、はては加藤と協力して自分の手で義隆の頸部に止めの一刺を加えて惨殺したというに至つては言語道断というの外なく、又その改悛の情においても充分なものがあるとは言い難い。

ところで、一方、義隆は二人の子を養育してそれぞれ縁づかせ、トクエと二人で新居を構えて平穏な生活を営み、部落の区長をつとめるなど人の信望もあつたものである。しかるに、二十数年連れそつた妻トクエに裏切られたうえ、姦夫である加藤及び妻トクエの手によつて手斧やナイフで斬りつけられ、血まみれとなり、みるも無残な姿で殺害されるに至つては、義隆の無念さは察するにあまりあるものがある。義隆の遺児である清佐智子及び同女の婿である清高光等は被告人等に厳重な処罰を求めており、又社会正義の観点からも本件のような常軌を逸した残忍兇悪な犯行は一点恕すべき点はないように見受けられるが、本件は被告人等が愛慾に溺れ、恋に盲目となつた結果、感情に走つて犯したものであつて、予め周到に謀られ、計画された犯行ではないという点において多少酌量の余地がある。

そこで、被告人らの刑責の軽重について考えて見ると、加藤は険悪な空気の中に義隆方に泊り込んで本件犯行惹起の因をなし、犯行に当つても先ず殺害の意を決して行動を起し、トクエの犯行を誘発しているのであつて、その責任の重大なことは言うに及ばないが、他面トクエは加藤より十年も年長であり、加藤との密通においてもむしろトクエが主動的であつた事情も窺われ、犯行に当つても、加藤の犯行を見るやこれに加担して、自らナイフを取り出して加藤を督励しながら、自らの手で夫たる義隆に最後の止めを刺したのであつて、その果した役割において両者の間に逕庭なく、その他諸般の情状に鑑みても、両被告人は同程度の刑責を負うのが至当であると認める。以上の次第であるから、当裁判所は被告人両名に対し所定刑中無期懲役刑を選択して被告人両名を各無期懲役に処し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文(連帯負担の分についてはなお同法第一八二条)を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 福山次郎 古崎慶長 松下寿夫)

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